弦楽専門誌「ストリング」2009年8月号よりfrom String 2009.8

我が街の弦楽器工房探訪

プロイス弦楽器マイスター工房 (株)

修復 鑑定 販売 製作

プロイス・アンドレアスさん / Andreas Preuss

String 2009.8 String 2009.8 String 2009.8 String 2009.8

 東京・池袋と東京音楽大学の間に店を構えているプロイス弦楽器マイスター工房株式会社のアンドレアス・プロイスさんにお話をうかがった。プロイスさんは、弦楽器奏者とのコミュニケーションを大切に、コンサートにもしばしば足を運ばれる方だ。本誌で執筆しているレイ・イワズミさんの楽器にも関わっていらっしゃる。

  • 工房の香りに魅せられて


  • ――弦楽器の製作のお仕事をしようと思われたきっかけというのは?

     「私はドイツのユーリッヒという古い町の出身です。十四歳からヴァイオリンを習っていましたが、十六歳の頃、ある弦楽器の工房へ新しいヴァイオリンを買いに行ったのです。そのとき、お店の方は片づいていない状態で他の客もいたので狭かったんですね。それで私は工房の方へ連れて行かれたんです。ふつう工房ではそういうことはしませんが。

     私は工房に入った瞬間、目が皿のようになったんです。工房の風景、独特なにかわの香り、木材の匂い……とても素敵だな、と思ったんです。以前から、木材を扱う仕事がいいとは思っていましたが、そこを見て決心しました。
     父は物理学者ですが、いつも、見えないものに対する仕事、つまり理論の仕事でした。私自身はそういうことにはあまり興味がなかった。音楽や芸術が好きでしたし、木材が好きでしたので、ヴァイオリンの製作という仕事をしたいと思ったのは自然のことだったと思います。

     それでまず製作学校を探しました。ミッテンヴァルト、クレモナ、アメリカ……。でも、お勧めは東京、と言われたんですね。東京は遠い、とよく皆に言われましたが、私の父は、日本人の物理学者と親しかったですし、母の友達が日本に行って結婚もしていましたから、日本というのはそんなに遠いという感覚ではなかったですね。十九歳の時に無量塔藏六先生の東京ヴァイオリン製作学校に入学しました。

     私はヨーロッパはいろいろなところに行き、さほど大変なことはなかったのですが、初めて日本に来た頃は、何も判らず、字も読めずに本当に大変でしたね。一番びっくりしたのは、ちょっと奥の道に入ると、車が入らなくなるくらい狭くなるということでした。
     それにしても東京の大きさには驚きました。電車に乗って建物がなくなるまでに一時間はかかる。でも、東京での体験はとても面白くて凄く勉強になりました。勉強に次ぐ勉強でした。」


  • 記憶力が重要

    ――日本語はどうやって勉強されたのですか?

     「一人で勉強しました。一番大変だったのは、良い教科書を探すことでした。日本語で難しいのは、同じ読みで違う言葉がたくさんあることでした。ですから、私は、むしろ漢字を最初からたくさん使って勉強した方が判りやすかった。記憶のためにも良かった。
     そもそもヴァイオリン製作家というのは、いろいろなヴァイオリンをたくさん見ているでしょう。それで、一つ一つをしっかりと記憶しなければいけない。商売のためにしっかりと覚えなければいけない。間違ったら大変ですから。

     無量塔藏六先生のところでヴァイオリン製作、修理を四年勉強しました。その頃は、とても多くの生徒がいて、一番華やかな時期だったと思います。優秀な生徒も多くて、お互いにライバル意識というものもあったと思います。
     卒業してからは、ドイツへ戻り、またいろいろな国へ行き、修行を重ねました。そして再びドイツに帰って、マイスター試験を受けました。三十歳の誕生日に試験がありました。

     私は若い頃に、たくさんの研究をしなけばいけないと思いました。
     例えば、ニューヨークには銘器がたくさん有ることが判っていたのですぐに行きました。ニューヨークは魅力のある街でした。『ジャック・フランセ』のところに、五年ほどいました。同時にドイツから奨学金を貰いました。高級修理、修復の専門知識を学ぶためです。

     ニューヨークには、ストラド、アマティ……古い銘器がたくさんありました。第二次世界大戦以前、ヨーロッパにたくさんの銘器があったのですが、戦争で多くの音楽家、演奏家がアメリカに逃げたからです。
     ニューヨークではいろいろな出逢いがありました。ジャック・フランセで修理したストラディヴァリウスに『アルトー・ゴドフスキー』がありました。五嶋みどりさんやアンネ・ゾフィー・ムターさんが使っている楽器もよく調整しました。
     その後、ザハール・ブロンとの出逢いも印象に残っています。」


  • 銘器との出会い


  •  「特にストラディヴァリウスはよく見ました。ヴァイオリン専門家は、やはり製作の歴史を把握することが前提だと思います。  本物を触ると、しかも、たくさん見ると、ストラディヴァリウスは、具体的な言葉では表現しにくいのですが、どう考えてヴァイオリンを作ったのかを感じることができます。

     現代のヴァイオリン製作者は一つの楽器をずっと機械的にコピーするというやり方で製作していくことが多いですが、ストラディヴァリウスはそうはしなかった。彼は要するに一つ一つの楽器にイメージを持っていた。つまり楽器ごとのヴァリエーションがあったんです。つまり、材料と音とに合わせて作っていたんです。ですから、一つ一つ比べると違って見えます。それでも彼が作ったかどうかがすぐ判ります。筆跡を見れば誰が書いたのかがすぐ判るのと同じことです。

     彼の作ったものは、初期の頃と晩年の頃とでは随分違います。最初の楽器と最後の楽器だけ見たら別の人のものかと思ってしまうかもしれませんが、全ての年代のものを見れば、こんな風に発達しのか、ということが判ると思います。
     ストラディヴァリウスは、我慢の人だったと思います。彼の黄金時代は五十歳を過ぎてからです。そこまで、ずーっと頑張った。四十年間頑張った。そこまで頑張れる人がどれだけいるか。

     彼は一本の木からいくつかの楽器を作って行きました。品質がほぼ同じ状態で、楽器を比較して作ることができたんですね。双子の楽器というものもあります。例えば、フランチェスカッティが使っていた一七二七年のストラドの双子は一七一四年のストラドです(Quersin)。

     デル・ジェスも同じく強い個性があります。デル・ジェスの場合は、最初の頃は、実にきちんと作っていて、『楷書』のような感じです。最後の方は『草書』のようですね。そうであっても、彼のスタイルというのは、はっきりとあります。裏板が一枚板が多いですが、彼は、父親のチェロ材を使ったからですね。
     もしかしてパガニーニがデル・ジェスを使わなかったらどうなっていたかな、という思いもあるんです。パガニーニの旅行先を辿ってみると、彼が通った街でことごとくデル・ジェスのコピーが始まりました。

     私は若い頃、自分のオリジナルのモデルのヴァイオリンを作ろうと思っていましたが、本当に素晴らしいヴァイオリンを作ることがどれだけ難しいことか、がよく解りました。凄く難しく時間がかかることです。それは想像力の問題になってくると思います。ヴァイオリンの名演奏者と同じですね。ヴァイオリニストは、どのような音楽をしたいのか、想像力がないと、ステージの上で何も実現しないでしょう。

     まず頭から来るんですね。その意味で、昔の演奏者は特殊な音を持っていました。現代は、かなり個性が薄れてきたように思います。」



    ――再び日本に来てどのくらいに?

     「三年くらいになります。ずっと昔から日本が好きでしたから、頭の中には、いつ日本に帰ろうかな、というものはありました。日本に住むのが一番快適です。」


  • 長年かけてデータベースを


  •  「私はもちろん手仕事が好きなのですが、同時に頭も使いたいと思っています。両方の行為がないと何かが足りないという気がしてならない。ですから、頭を使う仕事も同時にしています。私が何年もかかって作り上げた楽器のデータベースもその一つです。このデータベースには世界中の銘器が登録されていて、しかも、検索の方法がいくつもあって、いろんなキー・ワードから検索できます。

     いろいろな抱負がありますが、昨秋も行ないましたが、まずは展示会を充実させたいです。お客様にもっと良い楽器を見せたいと思っています。」

    取材/日 

    弦楽専門誌「ストリング」/2009年8月号より